1/3

 
 思い出せる限りの最古の記憶は、2歳か3歳の頃、入院していたおじいちゃんをお見舞いに行った記憶。錆びきったルーレットつきの自販機の隣の道を下っていった所にある保育園で粘土をこねた。
 
 4歳の頃幼稚園へ。夏は『裏山にアオダイショウが出た!』と聞いて先生と一緒にみんなで探しに行き道中の川には笹舟を流し、冬はストーブで温めたパック牛乳をのみのみ先生が育てていた蚕を眺めた。近所の小学校に見学に行った時、図書館の机がとにかく大きくて、友達とはしゃいだ。
 
 小学校は毎朝30分歩いて通っていた。電線上からカラスに爆撃を受け、家を出てから5分で帰宅した事があった。低学年の頃はアイスやクッキーの空き箱でロボットを作って遊ぶのが常だった。
 
 中学年は色々あった。
 3年生の時の先生は結構いけすかない感じで、私も含めクラスのやんちゃな連中が戦いを挑んでは教室隣の図工室でつねられたり、名前が似ているとある遊戯王のカードにみんなでラクガキしたりしていた。
 特に仲のよかった友達の家のラジカセに、謎の昔話を吹きこんでは聴く遊びをよくやった。この昔話が元であだ名が付いた。当時のクラスメイトに会うと、未だにその名で呼ばれる。
 当時流行っていたゾイドがすごく好きで色々買ってもらった。ゴジュラスをスプレーでどぎつい水色に塗装したり、色彩感覚が絶望的だった。
 お風呂で滑って頭を切った。いってえ・・・と思いながら湯船に浸かったら血の池風呂。以来血を見ると右手に力が入らない。医者は無理だなと悟った。
 
 楽しそうな文句に釣られて、いけない口裏合わせに加担したらバレて家がえらいことになった。親戚も半分ぐらい消し飛んだ。
 小学4年も終わりに近づいた2月の寒い日曜日の朝。僕はぼーっとあらいぐまラスカルを観ていて、妹はまだ寝ていた。家の外はどうやら修羅場の様相。あーバレちゃったのかー。この後自分の生活がどのように歪んでいくか検討もつかなかったので、のんきなもんだった。
 紆余曲折あって、父親の実家に引っ越すことになった。転校は泣くほど嫌だったが、幼い子供の力では抗えない流れに乗っていくしかなかった。数年前、当時の連絡帳を実家で発見したので開いてみた所、まるで覚えがないが、結構やさぐれていた的な内容が先生の綺麗な字で綴られていた。父親との応対に心を砕いている様子も見て取れた。4年生。初めてのクラス替えで当たった先生は、新任のやさしい先生だった。
 
 この一件で、修羅場で笑みが溢れる空気の読めない癖と、どうにもならない事は深く考えないようにしようという人生観が形成された。何事にも心揺れない、ひらべったい心でいようとこの頃よく考えていた。
 
 まだ3時間目の途中なのに、職員用玄関から車に乗って帰った。帰ったというか、おばあちゃんの家に行った。見慣れた通学路が遠ざかっていく。(続く)